1948(昭23)年に福岡で開催された第3回国民体育大会を記念し、
1950(昭25)年、第1回市民体育祭が開催された。
当時、焦土と化した福岡市において、スポーツを通して人々の心に明るい灯がともされ、市民スポーツ振興の歴史的な歩みが始まったと言ってもよい。これを機に、
1952(昭27)年 10月1日に 全国にさきがけ、高丘稔市議会議長を会長に、地域と種目を統合した福岡市体育協会が組織され積極的な活動を展開し、スポーツ振興法制定実現への原動力とな るほど大きな成果を上げた。しかし、その後の社会の急激な変化に対応するため、新しい性格と機能を有する組織の再編を目指して、
1957(昭32)年に発展的解散に至った。
その2年後、体育協会再編の機運が高まり、
1959(昭34)年3月、市内20のスポーツ団体による福岡市スポーツ団体連絡協議会が結成され、およそ2ヶ年有余にわたり検討を重ね、
1962(昭37)年1月25日、加盟19団体の福岡市体育協会が発足した。初代会長に福岡商工会議所会頭の佐藤篤二郎が就任、体育協会を財政的に援助していく財務委員会も同年に

発足し、初代委員長に小川治が就任し、102社に及ぶ賛助会員を得た。初年度の事業では、第13回平和台リレーカーニバルを
同年4月29日に 開催して、約1,800人が参加した。 同年の主な事業としては、第10回朝日婦人ページェント、福岡市青年体育大会、朝日招待日本スウェーデン対抗テニス大会、第1回福岡市青年短縮マラソン、 第1回福岡市油山ロードレースなどを福岡市、福岡市教育委員会などとの共催で実施した。
また、年間を通して小学校区、職場・職域でのスポーツの巡回指導などを実施した。 翌年の
1963(昭38)年には、スポーツ少年団を5団体で組織し、初代本部長に大神健太郎が就任した。そして、
1965(昭40)年には37団体、
1970(昭45)年には118団体、4,000人を超える組織へと急激に拡大していった。
また加盟競技団体も結成時の19団体から、
1965(昭40)年には23団体に、
1970(昭45)年には26団体、1972(昭47)年には30団体と順調に増加し組織の充実を図ることができた。

そして、体育協会内部の組織強化だけでなく、体育施設の整備建設運動にも粘り強く取組み、福岡市が進めていた体育施設整備基本計画の策定にも積極的に参画 し、市民体育館、野外活動センター(1972)、勤労文化センターなどの開設につながった。さらに各区ごとに体育館、プールの実現をみるよう活発な運動を 続け、
1975(昭50)年の市民スポーツ振興総合計画の中に組み入れることができた。
1974(昭49)年の第12回全国高校総合体育大会においては、大会の招致段階から積極的に協力を行ない、大会の準備、運営において福岡市体育協会加盟の競技団体が主体的に関わり大会の成功に大きく貢献した。
なお、1975(昭50)年には、福岡市の人口は100万人を突破し、多くの市民にスポーツを楽しみ、明るい健康な体と心を持つことができるようにすることが体育協会の任務であることを確認し、市民スポーツの育成援助にますます力を注ぎ始めた。